欅組組頭  畔上順平
junpei azegami

畔上順平 写真

皆さまはじめまして。欅組の代表を務めております、畔上順平(あぜがみじゅんぺい)と申します。

地元では「珍しい苗字ですね!」と良く言われますが、祖父が戦前に現在の新潟県上越市から埼玉県越谷市に移り住んで来たのがきっかけです。新潟では意外と多い苗字のようです。

私は生まれも育ちも越谷育ち。1976年生まれ、地元越谷を離れる事なく、東京の学校や会社に通い、29歳の時に地元で設計事務所を始めました。32歳で地元の女性と結婚をし、現在中学生のワガママな娘と小学生のガンコな息子との4人暮らしをしています。

仕事と家庭と時間の多くを地元地域で生活する中で、これまで建築のクオリティーだけにこだわっていた考え方が随分と変わってきました。最近では良い家とは何なのかという事をずっと考えています。自分でもまだ明確な答えが見つかりませんが、家をデザインする事から生活全体をデザインする事へシフトしています。

建築の仕事が大好きなので、これまで主だった趣味や興味がなかったのですが、独立、結婚後、特に子供が出来た事でだいぶ状況が変わりました。
コロナ禍にあり、思い通りに動けなくなっていますが、
最近ハマっているのは、地域活動と家族キャンプとハワイ旅行です。
やはり地元にいる時間が長いということがポイントなのですが、地域の諸団体に所属しながら地域の活性化や安全を守る活動をしている一方で、たまには遠くへ行きたくなります。自然の中や異国に身を置く事で、先入観や固定概念から解き放たれ、心と頭がリセットされます。

自分自身も日々生活の価値を高め、楽しみながら仕事にも取り組んでおります。

人は出会いで人生が変わります。

私も素晴らしい方々との出会いのお陰で今があります。

まだ見ぬ皆さまと出会えるを願っております

畔上順平はこうして出来上がりました < 長文プロフィール >

1976年3月23日
母親の実家東京世田谷の病院で産まれるも、すぐに埼玉県越谷市で暮らしはじめる。父母4歳年下の弟との4人暮らし。キリスト教の幼稚園に通っていた為、普通の童謡などが未だにあまり歌えない。その変わり教会での結婚式では賛美歌を誰よりも大声で歌う事ができる。何故か正義感が強く、女の子にちょっかいを出す隣の男の子に殴りかかるなど、今では考えられない行動を起こしていた。今でももしかすると正義感が強いのかもしれない。

1982年4月

越谷市立越ヶ谷小学校入学から1年後に東越谷小学校へ転校。父親の無計画な引越し計画は未だに理解が出来ないが、友達が2倍になったと前向きに理解している。

小学校3年か4年の時にある授業で友達の特徴をそれぞれ発表する機会があった。〇〇君は足が速い人ですとか、〇〇さんはいつも挨拶が出来る人ですなど、それぞれの特徴を共有するコーナーだったと理解している。自分は何を言われるのか、カッコイイとか頭が良いとか言われる事を期待している中で、誰だったかは忘れてしまったが、ある女の子に「畔上君は普通の人です」と言われた事をきっかけに、俺は人と違う事をしなければいけないのだ!と思い込む。今でもかなりの人生のショックな事件として刻まれている。その後目立つ為に学級委員に立候補したり、生徒会長に立候補したり、どちらかというと目立つ振舞いをするようになる。

1988年4月
人と違う道の第一歩目として、共学の公立中学ではなく、中高一貫男子校の私立中学に入学。後に地元で起業する為には地元の中高に行くべきだったと後悔する事になるが、今ではここでの友達や経験も後の人生に大きな影響を与えてくれたと感謝している。
当時は私立中学に入学する事が目的だった為、入学後は次の目標が全く定まらず、中学では子供の頃から好きだった野球部に所属しながら適度な勉強と適度な運動をして過ごし、高校では厳しい野球部を避けるように、水泳部、体操部に所属しながら適度な勉強と適度な運動をして過ごす事になった。ここで、また普通の人の自分を取り戻したのかもしれない。後悔している事としては本気で部活に取り組むべきだったと思っている。

1994年4月
国語と英語が苦手。数学と物理が得意という典型的な理科系人間だった事がきっかけで、芝浦工業大学建築学科に入学。ここで将来の道が少し具体的になった様な気がした。しかしここでも大学に入る事が目的だった為、こなし型の漫然とした生活を送る事になる。良かった事としては、個人経営をしていたこだわりの洋服屋でアルバイトをしていた事で、好きな事を仕事にするという選択肢が生まれた事と人と違う格好をする事で普通の人でいた自分がまた解き放たれ始めた。
人生の転機となったのが、4年の時所属したまちづくり系の研究室、今でも最も尊敬している三井所清典先生の研究室での合宿や研究がきっかけで、木造建築、特に古民家や寺社仏閣などの伝統建築物に高い関心を持ちはじめる。美しいまちが大好きで、美しいまちは美しい建築で構成されなければいけないと思い込む。後にこの思い込みは少し違っていた事に気がつく事になるが、当時は日本のまちなみを構成している多くの建築が経済ベースに乗った商品的で身勝手な建築である事に納得が出来ず、ハウスメーカーやゼネコンへの就職は罪であるとさえ思っていた。悩んだ挙句、就職の道を諦め、もう少し違う道を探り、勉強をする為に大学院へ進学する事を決意。ようやく少し遠い目標を持つ事が出来た瞬間だったかもしれない。とにかく人よりも気がつくのが遅いのだが、遠回りの人生も寄り道だと思えば楽しい思い出の様なものだと理解している。
大学院へ進学する事を決意したのが遅かった事から1年間浪人生活を送る事になった。本当に親には今でも頭が上がらないのは当然の事である。しかしこの1年間が後々の人生を大きく左右する事となった。初めての海外長期滞在、京都奈良への建築巡りの旅、有名アトリエ事務所でのアルバイトなど。時間があるからこそ出来た事ばかり。自分の仕事、生き方の大部分をこの時期に漠然と決めた様な気がする。

1999年4月
大学院試験を突破し、芝浦工業大学大学院へ入学。今思うと英語も出来ないのに良く受かったと思う。やる気になれば何でも可能である事を実感する。4年生の時から継続して研究テーマとしていた、中山間地域における住まいづくり、まちづくりの研究として、福島県舘岩村(現在の南会津町舘岩地区)をフィールドにしたこれからの住まいや住まい方についての調査研究を行い、村にどっぷり入り込み、村の人たちと議論をしながら未来の村のあり方を模索し続けた。今でもこの村には年に何度か訪れていて、個人的な繋がりが深い方や直接仕事の取引きを行なっている方も多く、人生に大きな影響を与えた場所でもある。
この時誰もが畔上はまちづくりの仕事、どちらかというと調査やコンサルタントの仕事に就くと思っていたようだったが、自分がこの研究を通して最も関心が高かったのは、この地域に昔から存在していた曲屋(まがりや)という形式の民家であった。まちの未来を模索する中でこの曲屋の存在が相当高い事を実感。これを残す事、この技術、材料で今後も家をつくる事が重要であると認識し、密かにこういった伝統木造住宅が自分もつくれる様になりたいと思っていた。

2001年4月
周りの仲間たちが大手の企業や有名組織事務所に就職する中、人と違った事をしなければならないオーラを纏った私は、所長と社員が1名の小さなアトリエ事務所に就職した。初任給は交通費別で10万円。当時の院卒の平均が25万円位だったはずなので、周りからは高学歴低収入とからかわれ、親も理解出来なかったかもしれないが、許してくれたのだから改めてうちの親は大したものだと思う。偉そうに申し訳ないが。
そんなアトリエ事務所にどうしても入りたかったのは、その当時自分の求めていた事を全て叶えていた人が近くに見つかったからだった。その人こそ松井郁夫さんという建築家だ。勿論今でも現役の建築家だが、美しい伝統的な木造建築をつくりながら、まちなみやそこに暮らす人々の事も考えた設計をする理想的な建築家だった。当時の事を思い出すと、辛い事はほとんど思い出せないが、当時はいつ辞めるかという事ばかり考えていた気がする。理想と現実がこれ程違うのかという事を実感する厳しい修行期間だったと思う。約3年間という短い時間であったが、所長と2人しか居ない期間も長く、内容も濃く、全てを経験させて頂いた事には本当に感謝している。今までの人生の中で一番負荷の掛かった時期であったと思う。今では何が起きてもそんなにビクビクしないのもこの時期の経験と忍耐力から得たものである。

2004年
技術を身につけ、変な自信に満ちた事で、何をやっても生きていける、好きな木造建築をつくり、お客様に喜ばれ、お金まで貰って美しいまちなみもつくる事が出来る。そう確信して資格も持たずにフリーの建築事務所を地元で構えた。これが後の株式会社けやき建築設計の前身である。勢いはあったが、そう簡単に仕事が入って来る訳がない。無計画に独立をし、現実に打ちのめされた。知り合いや友達から仕事を貰い、ゼネコン会社の監督のアルバイトなどをしながら何とかやりくりをしていた。この時期に起こった事も今では考えられない事ばかりだが、これまでの華やかな建築世界から一気に一般の建築世界を知る事が出来た良い時期だったと思う。設計だけでなく、多くの施工に関する知識を身に付けたのもこの時期である。後で付き合う事になる職人さんたちとの出会いも多かったし、色々な経験が出来た事は素晴らしい事だったと思う。

2005年?
私とは違い、30年以上大手の設計事務所に勤続していた父親が定年退職となった事をきっかけに、有資格者である父親と共に改めてしっかりとした設計事務所を設立する事にした。
しかしとにかく実績がない!家を一軒も建てた事の無い事務所に家を建てさせてくれる施主などいない。ここでまた有難い両親が登場する。なけなしの父親の退職金を元手に那須に別荘を建て、まずは事務所の実績にしようというのだ。当時は有難いというより、当たり前だと思っていた様に思うが、今書きながら本当にどうしようもない親不孝な息子だと思う。しかし、予算は相当限られている中で、自分たちで出来る事は全部やる事を決意する。この経験が後の設計施工への道へ大きくシフトするきっかけとなる。既成品を購入すれば高くなるという思い込みから松の丸太を購入し、構造材、造作材の製材からスタート。初めて付き合う大工さんにつくり方を指導する為に、模型として6畳の小屋を自力で建設。この頃日本の家は石端建て(いしばだて)という土台がなく石の上に建つものが正しいと思っていた事から、コンクリートの独立基礎の上に直接柱が立つ現代版石端建ての家を設計した。今ではこの建て方だけが正しいとは全く思っていないが、石端建てはシンプルなつくり方で分かりやすく、特に理屈で物事を捉える理科系の人には理解されやすい。
その後小屋を見せながら大工さんと打合せをしながら、何とか完成させた。この那須の山荘プロジェクトはこれだけで小説が書けるレベルなので、この辺でやめておこう。設計から施工まで那須に泊まり込みながら良く完成させたと思う。10年経って見ても色々と思うことのある自分の原点となった仕事である。悩んだり迷った時はこの建物を見る事にしている。

2011年
那須の山荘をきっかけに、新築やリフォームの仕事が少しずつ入るようになってきた。お客さまにも恵まれ、スタッフにも恵まれ、年に大小合わせて10軒位の物件を完成させる事が出来る体制が整いはじめた。基本的には設立当初から変わらぬコンセプトで建物づくりをしているつもりだが、社会の変化も著しく、求められるものも少しずつ変化している様に思う。条件によっては実現出来ない事も多い。特に予算や時間や相性がこれに当てはまる。仕事を断ったり断られたりする事もあったが、これまでの中で削ぎ落とされた絶対に変わらないコンセプトとしては、本物の素材を使うこと、職人の手づくりにこだわること、顔の見えるチームワークに徹すること。この3つである。これに加えて、上位のコンセプトとして、お客さまの人生の夢の舞台づくりのお手伝いをしていると認識している。
この年、設計業務と施工業務を分ける意味と特殊建築と一般建築の業務範囲を分ける為に、施工部隊欅組を設立した。各自の仕事の仕方自体には大きな変化はなかったが、けやき建築設計の代表にはそのまま父が、欅組の代表には私が新たに就任した。

2015年
この10年間は家づくりに没頭してきた。様々な経験の中から家づくりに対する考え方は一定の価値観を持つ事が出来た。ここで、また普通の人ではいけないスイッチが押されてしまう。良い家とは何か?溢れかえる家づくりに関する情報がお客さまの住まいに対する考え方を複雑化させてしまう。あれも欲しいこれも手に入れたい。消費者のニーズに合わせた現在の日本の家づくりには全く豊かさを感じる事が出来ない。学生の頃に学んだ、持続可能な豊かさへの探究心に再度火がつく事になる。家づくりも大切だが、まちづくりが大切である事に改めて気がつく。改めて地元を見つめてみると、それぞれの家もさる事ながら、まちの価値を高める政策や事業が乏しい事を発見する。
家づくり、建築士の立場からまちの改革を訴える為に、この年の市議会議員選挙に出馬し、下から3番目で辛くも当選。この後建築士との二刀流議員として、主に建築士の視点からの政策を強く訴えてきた。建築の仕事と議員の仕事を両立させ、家づくりとまちづくりを同時に進めてきた。その効果は犠牲も大きかったが、やっただけの成果も大きかったと思う。しかし、ここで終わらないところが、人と違った事をしなければ気が済まない自分の性分なのだろうか。議員は自分達で政策をつくる事は出来るが、主に議決の権利を持っている立場で、執行権は市長サイドが主に握っている。自らの手で家をつくり、まちをつくりたい自分にとっては決める側でなく、提案する側に居たいと思うようになる。この想いが抑えきれず、2017年の秋に議員を辞職し市長選挙に臨んだ。地元の更なる発展、我々市民の持続可能な豊かさを享受出来る政策をかざしたが、最低投票率の中、現職に1.5倍も離され惨敗。甘くない現実を受け入れ、また建築屋として一から出直すことを決意し、今日に至る。豊かさ、幸せというキーワードを忘れず、パワフルに活動しながら、幸せな家づくり、まちづくりの仕事をこれからも行う。